文:三橋弘行 写真:坂上修造 取材日:2018年4月3・4日
[ モーターサイクリスト誌連載 建築編 第6湯 ]







20代半ばまでの若い頃は勉強もろくにせず、バイクでよく箱根通いをしたものだ。そのルートは東京大田区の自宅から国道1号で素直に目指すか、または優雅に海岸線を走って湯河原経由で山に入るか。いずれにせよ日帰りで、箱根周辺に宿泊したことはまったくない。
そんな思い出から30数年過ぎ、あの時の通過の街でしかなかった湯河原に、今回は温泉取材として足を運ぶことになる。
箱根の大観山からヒョイヒョイと椿ライン(バイク乗り御用達)の急カーブを軽快に下る。若い頃は目を三角にしてひたすら路面しか見てなかったが、今日は椿の花を楽しみながらのんびりと。
やがて湯河原の温泉街に入る。その県道から小さな橋を渡った狭い路地、いや、かつてはこの道が温泉街のメインストリートだったはずだが、賑やかさはまったくない。その奥に目的の宿「源泉 上野屋」がある。



湯河原温泉を語るには、隣の熱海温泉の存在も気になる。どちらも温泉が由来の地名で、湯河原は『箱根の山から流れる河原に、が湧き出ていた』から。そして熱海は『海岸熱湯が湧き出していた』から。その名の通り。
 しかしどちらも過去形なのは、現在はほぼ自然湧出ではない。それは明治期以降、温泉宿が数多く建てられ、競うように掘削して湯を取れば、温泉脈は地下深くに下がる一方となった。今では掘削しても自噴はせず、動力ポンプで引き上げている。そして湯量制限付きで、各温泉施設に分配する方式が多数あり。これは湯河原・熱海だけのことでなく、全国でも同じような事例が多い。
 そんな中でも上野屋は自家源泉を持つ、典型的な無色透明・無味無臭の身体を癒やす湯である。「ここはね、湯河原でトップクラスの泉質です!」と語るのは、取材応援に来ていただいた、温泉研究・評論家の石川先生。

●石川理夫(いしかわみちお)先生
温泉地の歴史文化の研究に携わる日本を代表する温泉評論家。最近の著書は『本物の名湯ベスト100』『温泉の平和と戦争』等々。日本温泉地域学会会長。

先生とは、2017年発行の筆者の第1弾温泉本「究極の癒やし湯」にお手伝いいただいたご縁で、源泉上野屋取材にご一緒となる。ちなみに、お会いする時はなぜか酒の席。酒のご縁でもある。



3棟ある宿はまるで迷路のよう。昭和5年に建築の木造4階建て、その最上階には足湯。石川先生と足湯に浸かり、部屋に戻ろうとするがすぐには見つからない。一つのフロアに階段が2つも3つもあり、上がったり下りたり右往左往。これがまた楽しい。
鉄筋・鉄骨のホテルの近代的な設備に慣れている人々も、伝統ある木造建築の少々不便な、いやいや、その不便が大いに楽しめるのではないかと想像できる。

迷路のような館内には階段が多い。近代建築に慣れた者には不思議な空間である。 水戸藩の紋が勇ましい水戸光圀公の重箱。江戸時代、ここの湯船に浸かったと伝えられる。





夕食は相模湾で獲れた魚を中心に盛り付けされている。見た目も美しく、食欲をそそる。まずはビールで乾杯とひと口喉を潤せば、さっそく石川先生との温泉談議が始まる。
やがて宿の主人がやって来た。日本酒をたっぷり持って。これには私だけでなく先生もニコッ。珍しいのです、酒を交わしながら話をしてくれるという宿の主人は。






石川先生が太鼓判を押す源泉上野屋の湯にまったりと浸かる。にごり湯や香りが特徴的な硫黄泉もいいが、無色透明・無味無臭のこの湯を、さ~て、なんと表現したらよいか・・・「心が落ち着く柔らかい湯」とでも言いましょうか。
毎度のことだが、温泉の湯を皆様に詳しく伝えるのは難しい。人の感覚機能の「五感」、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のうち、湯は写真で視覚、文章で臭覚と触覚だが、その表現が難しい。文才があれば別の話だが、筆者のような文章力では、、、?(こんな筆者だけど、石川先生は文章を褒めてくれるのが嬉しいわけでして)

縁起の良いひょうたんから源泉を湯船に注ぐ『六瓢(むびょう)の湯』。傷を癒やし、肌に潤いを与えるまろやかな弱アルカリ性。ひょうたんにはその化学成分からなる析出物がびっしり


[ 源泉 上野屋の湯]
ナトリウム・カルシウム-塩化物・硫酸塩泉
源泉本数:自家源泉 2 動力揚湯 
総湧出量(許可量):79 ℓ/分 源泉温度:81.3℃
弱アルカリ性 pH 8.4 溶存物質(ガス成分除く):1730mg/kg
源泉掛け流し 加水なし・加温なし
浴室:内湯2(男女別入替え制)
貸切り半露天風呂 2 足湯 1 風呂付客室 3
取材日:2018年4月3・4日





母屋裏の源泉湧出口にて、お孫さんを抱っこしながらジイジ、いやご主人。
「うちは高級旅館じゃないですよ。母によく言われました。かっこつけるなっ、高い料金にするなっ、と。今は娘に言われます。かつては部屋食でしたが、人件費が掛かるから大広間を食堂にして、と。仕方がないから従いましたよ、ハッハッハ」
・・・気さくな温泉宿である。





黄門さまが浸かったと伝えられる歴史ある湯、そして情緒豊かな国登録有形文化財の温泉宿ではあるが、とはいえ温かみのある家庭的な雰囲気が漂う。東京から近いプチ贅沢、たまにはいいものだ。

料金はひとり平日1万5000円~ (2名1室諸税込・1名宿泊は土曜日を除き可)。
全16室。
立寄り入浴:1,000円(内湯「六瓢(むびょう)の湯」のみ利用可)
[2020年3月現在]

源泉 上野屋 公式HP >>




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