・・・いかがだろうか、戦国の武士たちの姿。
現代の世、鬼の小島弥太郎のような“花も実もある”ヤツはいるだろうか。
高坂弾正のように、敵兵まで手厚く葬る、そんないいヤツはいるのだろうか。
現在の戦争で、敵が食料で困っている時に、上杉謙信のような行動をとる国があるだろうか。
四百数十年も前のことだから、少々話に尾ひれが付いていると思うが、火のないところに煙はたたないのである。私はそれらを作り話だとは思わない。そうであったと信じる。でないと、戦国時代は、情け容赦ない奴らばかりしかいない世の中だった、で終わってしまうから。
もし学生時代に、こんなエピソードをまじえた教科書、授業だったら、歴史に興味を持ったハズなんだがなあ。。。
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八幡社が静かにたたずむ。この奥の境内には信玄・謙信両雄一騎討ちの像が。
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執念の石:武田軍の武士が謙信を仕留められず、悔しがってヤリで石を突いて貫通させた・・・というが、これはチョット、クサイね。
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観光客はバアさまばかりなり。やはり戦国時代なんて若者には興味ないのか。いい人生勉強になるのだが、、、残念。 |
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高坂弾正が建てた、両軍戦死者の塚。この説明に“敵に塩を送る”があり。
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「すんごく美味しいモモだで、食べてみぃ」・・・ダメだっつうの、試食だけでは済まないって。
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ほ〜らね、モモ売りのババアにやられた。でも東京ではめったに売ってないこの硬いモモ、かなり旨いのである。 |
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長野市の川中島古戦場をあとにする。すぐに上信越道 長野インターはあるが、時間に余裕があるのでそれに入らず県道35号で上田市を目指す。が、、、“上田”の案内標識はどこまで走ってもなく、その方向案内はず〜っと“真田(さなだ)”。そう、あの真田の武将の領地である。
少々戦国史の勉強をしたものだから、真田=上田市というのを知っており迷わず先に進むが、そうでない場合、はたして真田の町が上田市内であることを通りすがりの観光客が分かるのだろうか。一般的には“真田”より、高速のインターあり新幹線の駅ありの上田のほうが知られている。なのになぜ、、、。
これは私の憶測だが、信州は現代でも真田の武将に対して敬意を表しているのではなかろうか。 |
※長野インターからは、千曲川沿いの国道18号でも、山越えの県道35号でも上田市に出る。だから県道のほうは上田市内でも“真田”の標識にしたとも思えるが、ならば“地蔵峠経由
上田”とか“上田市真田”とするほうが、一般観光客には分かりやすいと思う。・・・でも心情的にはこのままでいてほしい。
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川中島古戦場を出るとすぐに上信越道 長野インター。しかし我らは直進し真田方面へ。 |
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先の標識もず〜っと“真田”。
この先十数キロ走っても、やはり真田。上田市に向かうも“上田”の標識は、結局上田市真田町に入ってから。今でも真田の殿様の影響力は強いのか。
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県道35号、地蔵峠に向かうスクーター、全開!
時間的には、国道18号より、こちらの方が早いか。信号ないし、クルマ少ないし。 |
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地蔵峠から長野市を望む。 |
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上田市真田町に入る。その標識のマークは、真田の武将がカブトに付けてた“六文銭”。 |
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六文銭:武田軍の真田幸隆が、「我らが戦うのは定めだが、しょせん人殺し。きっとあの世では地獄に落ちるだろう」と、家来達にも三途の川の渡し賃としてカブトに六文の銭を付けさせた。
真田幸隆という武将の、家来を思いやる気持ちの表れだろう。以降、真田家の家紋とされる。
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