最終話 2007年8月25日

 国道18号を南下し、長野市に入るとその中心部の南側に川中島古戦場がある。武田信玄との戦いでも、越後の謙信軍は同じルートで進軍したのであろう。・・・あれ、を持って。

 新潟県の名物“笹団子”、いまや全国的に知られているであろうメジャーな団子だが、それは上杉謙信が合戦時の携帯食として考案したとされる。まあ、大将である謙信自身が、必死に団子の研究をしたとは思えないが、つまらん疑いはやめとこう。きっと川中島の戦いでも持参していたに違いない。
 対して山梨県の名物にも“信玄餅”がある。こちらは安部川餅をパクッタとされる。その歴史は古くなく、昭和43年の発売だというから、信玄がどうのこうのという食い物ではない。ちなみに安部川餅は徳川家康の好物と伝えられ、、、どうも長くなっていけない。団子や餅はこのくらいにしておこう。

笹団子:餅に入った“よもぎ”は栄養価が高く、それを包み込む笹は殺菌作用がある。上杉謙信の戦国携帯食、よく考えたものだ。


 いままで“謙信”、“信玄”とどれだけ書いただろうか。しかし、ここ川中島の合戦場でも、当時はその名で呼ばれていない。上杉謙信は“長尾景虎”であり、武田信玄は“武田晴信”、本来はそれらの名が正しい。しかし、謙信、信玄、と呼ばなくては、きっとワケ分かんなくなってしまうだろうから、そうしたし、これからもそう呼ぼう。(武田晴信は合戦時代に出家し“武田信玄”と名乗るようになったが)
 そしてもうひとつ、上杉謙信は“越後の虎”とも“越後の龍”とも呼ばれる。武田信玄も“甲斐の虎”“甲斐の龍”とも。どっちも虎だったり龍だったり、、、ほんとはどっちなんだ! ものすごくまぎらわしいことも付け加えておこう。

 さぁ〜て、ついに両軍の激突、川中島の決戦である。1553年から12年間にも及ぶ5回の戦いをちょっとだけご案内しよう。
 ただし、、、いつ、だれが、どのような手柄をたてたか、という歴史的な勉強ではなく、あのオヤジやこのオヤジのあんなこんなのエピソード。聞いて調べた話を私の演出で少々書き換えてはいるが、なにを隠そう、そんな話に深く感激したのは、この私である。


 川中島の合戦の原因は、武田信玄が信州の一部領地を持つ村上家を攻め、村上が越後の上杉謙信に助けを求めたことが始まりとされる・・・が、その前から、上杉謙信は武田信玄という男が大っ嫌いであった。他人の領地を情け容赦なく攻め滅ぼす信玄、戦国時代では当たり前のことだが、それよりも人間的に「アイツは好かん!」との思いが強かったのだろう。それにしても12年も、よく飽きずにケンカするものだ。
 長いことケンカしていると、家臣の武将達にも戦いのエピソードはある。ほんの一部だけど、お伝えしようか。

 合戦で、武田軍の山県昌景(やまがたまさかげ:あの温泉オヤジ)と、上杉軍の鬼の小島弥太郎(こじまやたろう:信玄の飼い犬ぶっ殺しオヤジ)が1対1のタイマン勝負となった。
 その最中、山県は自軍の信玄の子息が近くで窮地にたたされているのを見て、「我が親方様の子息を救いたいので、この勝負、一時休戦したい」と願ったところ、小島はこころよく承諾したという。山県は言った「小島弥太郎、花も実もある勇士」と。
 ふつうなら、敵の大将の子息が切り殺されることは大歓迎のはずなのに、山県の願い事など無視して当然なのに、鬼の小島弥太郎ってヤツは、男だねえ。。。


4回目の合戦では、信玄(左)と謙信(右)の一騎打ちがあったとされる。川中島古戦場 八幡原史跡公園内。


 “敵に塩を送る”この言葉の意味は以前にも述べたがもう一度復習を。そのうえで、武田軍きっての美男子、高坂弾正(こうさかだんじょう)編をお伝えしよう。
“武田信玄は駿河国(現静岡県)の今川氏とのいざこざで塩の流通を断たれた。信州・甲州は塩が取れず領民は苦しんだ。
それを知った上杉謙信、何度も合戦をした敵対する間柄ではあったが、その苦しみを見過ごすことはできず、“義”を重んじる兼信は越後から信州・甲州に塩を送り、武田信玄と領民を助けた。
以来、敵対関係でも相手が苦しいときに助けることを「敵に塩を送る」と言われるようになった。”
 初めに聞いた言葉の意味は以上のことだった。しかしそれには高坂弾正が深くかかわっていたこともお伝えしなくてはならない。
川中島の戦い、4回戦のことである。合戦が終わると辺りには数千の戦死者。ここで武田軍の武将 高坂弾正は、敵、味方の区別なく遺体を集め、手厚く葬り、塚まで作ったのである。
それを聞き、上杉謙信は大変感激。塩不足に悩む武田方に対し「われ信玄と戦うも、それは弓矢であり、魚塩にあらず」 と直ちに塩を送り、恩に報いたとされる。
 高坂弾正、あんたは偉い! 上杉謙信、やはり“義”を重んじるアッパレな武将だ! これぞ武士の美学だ。



 決着がつかずに12年にも及ぶ長い戦いは終わった。その後、武田信玄は織田信長、徳川家康とも戦うも、やがて持病が悪化し病死する。その直前、息子 勝頼(かつより)に言い残した。
「自分が死んだあとは“上杉謙信”を頼れ!」、、、と。

 あれだけ壮絶な戦いをして、自軍にも数千、一万ともいえる戦死者を出した敵の大将を頼れとは、、、“塩”のこともあるだろうが、おそらく信玄は長く戦っているうちに、謙信に尊敬の念をうっすらと抱いていたのではなかろうか。上杉謙信という男、それほど魅力ある武将だったのであろう。
 その後、息子 勝頼は越後の上杉謙信のもとに出向き、和議を結んだとされる。


 ・・・いかがだろうか、戦国の武士たちの姿。
 現代の世、鬼の小島弥太郎のような“花も実もある”ヤツはいるだろうか。
 高坂弾正のように、敵兵まで手厚く葬る、そんないいヤツはいるのだろうか。
 現在の戦争で、敵が食料で困っている時に、上杉謙信のような行動をとる国があるだろうか。

 四百数十年も前のことだから、少々話に尾ひれが付いていると思うが、火のないところに煙はたたないのである。私はそれらを作り話だとは思わない。そうであったと信じる。でないと、戦国時代は、情け容赦ない奴らばかりしかいない世の中だった、で終わってしまうから。
 もし学生時代に、こんなエピソードをまじえた教科書、授業だったら、歴史に興味を持ったハズなんだがなあ。。。





八幡社が静かにたたずむ。この奥の境内には信玄・謙信両雄一騎討ちの像が。


執念の石:武田軍の武士が謙信を仕留められず、悔しがってヤリで石を突いて貫通させた・・・というが、これはチョット、クサイね。


観光客はバアさまばかりなり。やはり戦国時代なんて若者には興味ないのか。いい人生勉強になるのだが、、、残念。


高坂弾正が建てた、両軍戦死者の塚。この説明に“敵に塩を送る”があり。


「すんごく美味しいモモだで、食べてみぃ」・・・ダメだっつうの、試食だけでは済まないって。





ほ〜らね、モモ売りのババアにやられた。でも東京ではめったに売ってないこの硬いモモ、かなり旨いのである。






 長野市の川中島古戦場をあとにする。すぐに上信越道 長野インターはあるが、時間に余裕があるのでそれに入らず県道35号で上田市を目指す。が、、、“上田”の案内標識はどこまで走ってもなく、その方向案内はず〜っと“真田(さなだ)”。そう、あの真田の武将の領地である。
 少々戦国史の勉強をしたものだから、真田=上田市というのを知っており迷わず先に進むが、そうでない場合、はたして真田の町が上田市内であることを通りすがりの観光客が分かるのだろうか。一般的には“真田”より、高速のインターあり新幹線の駅ありの上田のほうが知られている。なのになぜ、、、。
 これは私の憶測だが、信州は現代でも真田の武将に対して敬意を表しているのではなかろうか。
※長野インターからは、千曲川沿いの国道18号でも、山越えの県道35号でも上田市に出る。だから県道のほうは上田市内でも“真田”の標識にしたとも思えるが、ならば“地蔵峠経由 上田”とか“上田市真田”とするほうが、一般観光客には分かりやすいと思う。・・・でも心情的にはこのままでいてほしい。




川中島古戦場を出るとすぐに上信越道 長野インター。しかし我らは直進し真田方面へ。

先の標識もず〜っと“真田”。
この先十数キロ走っても、やはり真田。上田市に向かうも“上田”の標識は、結局上田市真田町に入ってから。今でも真田の殿様の影響力は強いのか。

県道35号、地蔵峠に向かうスクーター、全開!
時間的には、国道18号より、こちらの方が早いか。信号ないし、クルマ少ないし。

地蔵峠から長野市を望む。

上田市真田町に入る。その標識のマークは、真田の武将がカブトに付けてた“六文銭”。

六文銭:武田軍の真田幸隆が、「我らが戦うのは定めだが、しょせん人殺し。きっとあの世では地獄に落ちるだろう」と、家来達にも三途の川の渡し賃としてカブトに六文の銭を付けさせた。
真田幸隆という武将の、家来を思いやる気持ちの表れだろう。以降、真田家の家紋とされる。





 上田から上信越道に入り、東京の自宅に帰った。いやぁ〜、今回の1泊2日、なんと面白く、充実した二輪旅だったろうか。でもちょっと濃すぎたかなっ。

 ツーリング紀行ページなんて、綺麗な景色、面白そうな道、いい温泉に旨いもんの写真を載せて、サラッと文章書いちまえば、そう時間のかかるものではない。が、歴史が入るとそうはいかない。そんなことは分かっている、いるのだが、ついつい奥深くに入ってしまうのである。

 これが私の本業ではなく、どちらかといえば“片手間”に好きでやっているにすぎない。手を抜こうが抜くまいが自分次第、そうだ、今回のページ作りは手間が掛かりすぎたので、次回は思いっきり手を抜こう。
 ・・・と、今は思っている次第であります。


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