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しかしこの界隈が革靴をはじめとする履き物産業の聖地であることは、なかなか知られていない……という長〜い前置きをふまえてもらい、第1回目のお題目として、浅草周辺の皮革産業と日本の皮革文化のお話を展開したい。
東武線浅草駅から隅田川沿いに上流へと溯ると「皮革産業資料館」がある。かつては学校だったという台東区の産業研修センター内にある皮革産業資料館は、その校内の一室を利用している。狭い展示室(教室)ながら、江戸時代から明治・大正・昭和の皮革産業の歴史が凝縮されており、その充実した内容と国宝級の展示物は、大人の私にとってまさしく一見の価値有りなのであった。
展示品を見ていくと、近世から近代への皮革文化の変遷がわかりやすい。江戸時代というと、未だ皮革製品とは無縁のようなイメージすらあるけれど、案外充実した皮革文化があった。馬の鞍や鐙(あぶみ)などの馬具関連。火縄銃の弾薬入れ、刀の拵(こしら)えを保護するための外装などの武具関連。丁銀などを入れた革袋や判取り帳のカバーなどの商業関連。金唐革や文庫革と呼ばれる繊細な細工を施した工芸品関連。さらには、鹿革を利用した羽織や火事の際にかぶる革頭巾などなど様々なジャンルでの皮革製品を見ることができる。そのどれもが、革の持つ堅牢さなどの特徴を活かした実用性を重視するとともに、権力や財力、さらには江戸人の粋を具現化している。そりゃそうだろう。この時代の皮革製品は、現代ほど一般的なマテリアルであったわけではなかったのだ。それゆえに高価な金唐革などは、見栄えとしてはそっくりだけれど、実は紙で作られる金唐紙も存在したという。この金唐革というのはヨーロッパに起源があり、革に凹凸を付けて繊細に彩色したもので、壁装材として普及した。日本にはオランダを通して持ち込まれ、壁装材としてではなく、小さく裁断されて袋物などに加工され珍重されたという。
それぞれの展示品は、時間の流れのなかで劣化しているものの、なかには今すぐにでも実用品として役立ちそうなものもあり、皮革の耐久性と質感にはあらためて感心してしまう。
これらの江戸期の皮革製品が皮革を独自の文化に取り入れているのに対して、明治維新以降の皮革製品は西洋文化そのものといっても過言ではないほど、その影響を受けている |
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産業研修センター到着。このなかに「皮革産業資料館」がある。
入館料は無料だ!! 浅草の駅からはちょっと歩く。周辺には金唐紙を発明したともされる江戸時代の蘭学者・平賀源内の墓所である総泉寺がある。また、隅田川の対岸にはかつての製皮場跡もある。 住所:東京都台東区橋場1-36-2 台東区産業研修センター内。休館日は月曜と年末年始。開館時間は10時〜16時。 |
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今回、いろいろと貴重なお話を聞かせていただいた資料館副館長の稲川氏。
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左写真:鹿革の羽織と頭巾。町内の頭とされる人だけが着用を許される羽織で、鞣し(※なめし)は日本の伝統的な方法である燻煙鞣製(フスベ鞣し)が行われている。襟には「神風」、腰には「叶」の文字が描かれ、それはもう粋でいなせな逸品。手前の革頭巾は、火事装束のひとつとされていた。耐火性に優れ、柔軟性もある鹿革を実用の道具として使用していた例である。
(※なめし:腐らないように“皮”を“革”とする加工)
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皮革製の刀の外装。刀の拵(こしら)えである鞘(さや)や柄(え)を保護するために使用された。井伊直弼が襲撃にあった桜田門外の変以降には、とっさに刀が抜けるように柄と鞘が別体になったというが、それ以前は一体型だったのか……。泰平の江戸から騒乱の江戸、そして靴を履く明治へと移行するのであった。 |
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その代表は革靴の登場である。そうはいっても「明治維新なので、明日からは靴を履きませう」なんてお達しが出るわけもなく、ほとんどは下駄や草履のままである。それでも、一気に西洋化しなければならない事情を抱える人たちもいたのだ。軍隊や警察、そして郵便事業などに関わる人たちなどである。「突撃っー」「やべっ、鼻緒が切れた」とか、「こらーっ、泥棒まてー」「遺憾!!鼻緒が切れたっー」とかいっていられないものね。
西洋から靴を輸入するって方法もあったのだろうけれど、西洋人と日本人の足型の違いは今も昔も共通の悩みであったわけで、結局は国産するのが一番良いということになったという。まして、江戸期にもしっかりとした皮革産業のあった日本であるから、試行錯誤の末になんとか国産の革靴を作り上げたという。
明治3年、新政府の兵部大輔・大村益次郎の勧めで、旧佐倉藩士の西村勝三が「伊勢勝造靴場」を築地入船に設立。その後、西村は明治35年の「日本製靴株式会社(現・リーガルコーポレーション)」設立に至る。また、江戸の皮革産業を仕切っていた弾直樹が王子滝野川や浅草に靴産業の拠点を築いたり、大塚岩次郎が13歳で「大塚商会(現・大塚製靴株式会社)」を設立し、後に皇族や陸海軍の御用達となるなど、国内での靴産業が徐々に根付き始めることになる。しかし、一般庶民や女性の足に靴が履かれるのは、戦後経済が安定する30年代以降まで待つことになる。なにしろ、昭和30年でも9300万足の下駄が生産されていたのだから、靴の普及にはたっぷりと時間が掛かったことがわかる。それでも、第2次大戦までは靴の輸出も行われていたというから、その技術は西欧諸国にも劣ることのないレベルであったといえる。
また、明治から大正にかけては革製の鞄も増えてきた。風呂敷は、大きくもなるし小さくもなるのでとても便利だけれど、洋装には合わない。そこで、鞄の登場なのである。一説には、明治22年の新橋〜横浜間の鉄道開通が、鞄の普及を加速させたともいわれているらしい。
フーテンの寅さんが持っているような大きな旅行鞄も展示されている。飛行機の旅なんてない時代だから、船旅での寄港地のステッカーがベタベタと貼ってあり、それがステイタスだったという。 |
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近代の展示物は靴が多い。それは近代の皮革産業が靴を中心に展開したからだといえるだろう。
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な、な、なんと犬革の靴もありました。戦時中に牛革の供給が間に合わなくなり、その代用品として犬革が生み出されたというが、その裏には「兵隊さんが戦地で戦っておるというのに、犬を飼っているとはなにごとかぁ」という時代背景がある。鍋釜と同時に犬も差し出されたのだった。のらくろもびっくりの悲しい話である。明治維新後に「これからは鉄と革を普及させねば」といった人がいるというが、そのいずれもが不足した戦争末期……うーん
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1970年の大阪万博で、なんと、5000年後に開封するというタイムカプセルに入れられた日本製靴(現:リーガル コーポレーション)のシューズ。
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スポーツ関連のコーナーには、様々なジャンルの皮革製品が並んでいる。なにげにスポーツ用品と皮革製品の結びつきは深い。田淵幸一選手のスパイクの隣には小錦関の靴があり、それはもう大きいことこの上なし。どんだけ〜って感じだ。 |
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大正時代の文庫革図案見本帖の1ページ。文庫革とは、おもに姫路の白鞣し革を型押しして凹凸を付け、絵柄を染色したもので、小さな箱物の外装や袋物に利用された。明治維新により刀職人などの職がなくなった結果、その器用な手業は、これらの分野に活躍の場を移したという。
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船旅が盛んだった頃の革製のスーツケース。持ち主はかなりの金持ちであったか、はたまた役人であったか、旅の記録としてステッカーがたくさん貼られていた。
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展示されていたグローブのできるまで。ランドセルも皮革製品だけれど、それ以上にグローブとの出会いは嬉しかった気がする。必要以上にオイル塗り込んで、手に付いた革の匂いに酔いしれたものである……これはフェチだったんだろうか?
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王選手のスパイク、ホームランボール、ファーストミット。関係ないけれど、ファーストミットって、子供の頃に憧れませんでした? |
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昭和40年代初頭までの運動会は“たび”。これをなつかしいと思う人は、まちがいなく・・・オヤヂ。 |
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