2011年:夏から秋の出来事
2011年11月、弊社ペアスロープに鹿児島の織り元:健二郎氏が大島紬のセールスにやって来た。いや、一杯飲みにやって来た。
氏は本場大島紬の宣伝活動で、日本のあちこちを訪れていて、ま、そのついでに弊社ということだ。「ついで?」、ついでっつうのはいかがなものかぁ、えっ、どういうこった!
その宣伝活動には大島紬と結城紬の織り元さんらと手を組んだ“唯一無二之(ゆいいつむにの)会”というのがある。聞けば京都染物屋いづつ山田氏も入っている。補欠で。(山田氏の名誉の為に述べれば、会員は織り元さんが原則)
まあ“唯一無二之会”がどういった活動をしているのかは、その公式サイトを覗いてもらうことで省略しよう・・・って公式サイトなんてないじゃん! 健二郎氏いわく「わたしらはアナログだから足で歩いてクチを使って宣伝する」・・・何時代の人かな?
“唯一無二之会”公式サイトがないのは、いかがなものか!と、このページ制作時に旦那衆にクレームつけたら、2012年1月、皆さん集まって“京都緊急会議”を開くことになりました。公式サイト、さて作るのか作らないのか・・・?。
健二郎氏が来店した数日後のことである。このサイト第3話“大島紬の健二郎殿”を読んで、結城紬の龍田屋藤貫氏からメールが届いた。
「お久しぶりです・・・(中略)・・・結城紬の「
トンボ柄
」、昔風でザックリ感のある、リーズナブルな本物を考えています。
作っちゃいますね。ダメなら、自分で殿様になった気分で着ちゃいますからご安心ください。」(原文)
この文章の行間には、たぶんある言葉が隠されているだろう。私なりに想像してそれを引き出せば、
「・・・結城紬の「
トンボ柄
」、
(大島紬の関さんはできないって感じだけど、結城紬の私、藤貫さまには可能だから)
作っちゃいますね・・・」
ど〜する健ちゃん、いや健二郎殿、ライバルの結城紬龍田屋さんは「作っちゃう」って言うけど、あなたはど〜なの、薩摩の男として、プライドがゆるさないんじゃないの? ・・・こうやってけし掛ける俺がいちばん悪いヤツかもしれない。。。
<“唯一無二之会”の4人衆。弊社ニッポン製品作りの強い味方である >
それにしても美しい絹織物を作る旦那衆ですねえ。。。
器がほしいな・・・。
思えば2011年初夏、6月頃だったかな、久しぶりに健二郎殿に電話した時「絹とのコラボ製品、もうやらんの?」と聞かれ、「おっ、そうだなあ、あれ面白いから、続編をすぐにでもスタートしようかぁ」と、ついクチを滑らせてしまった。それがこの“続・絹の道”の始まりである。
そして10月上旬、京都で開催の“唯一無二之会”展示会のあと、結城紬の旦那方と飲み屋で会い、その後すぐに本格的なスタートとなった。京都いづつの山田氏も交え、パワーアップして。
ちょうどその頃、ひとつの疑問があった・・・旦那衆の絹や染物と弊社縫製とのコラボ製品は、きっと素晴らしいのができるだろうが、今の東京の弊社店舗にラインナップして良いのだろうか? ちょっと違和感があるのではなかろうか?
ならば・・・・・
絹織物だから歴史ある街がいい、そして織り元の旦那衆が集まる京都がいい・・・単純な発想である。
しかし京都といっても、いささか広い。それに歴史と風情ある街並みばかりではない。京都五条“いづつ”の山田氏は「ウチのビル、テナント空いてますぅ〜」と言うが、ビルの中ではイメージがだいぶ違う。スマンな、山ちゃん。
京都といえば町家(まちや)。太平洋戦争で米軍が京都中心部に爆弾を落とさなかったため、伝統的な木造建築である京町家は健在なのだ。
さっそくネットで町家の貸店舗をくまなく探す。しかしビルのテナントは選び放題にたくさんあるが、店舗用町家はどんなに探してもほんのわずか。しかも、祇園などの風情あるところは・・・とんでもなく恐ろしく高額な家賃である。こ〜りゃダメかな???
こっ、これはすごい器だぁ!
ネットを駆使して探すと、わずかながらも店舗用京町家はあった。とりあえず京都在住の弊社特派員:橋本に物件を見に行ってもらい写メが届く。
10月初め、そんななかに「おっ!」と思う物件が2軒あり、自分の目でも確かめたいために京都に向かう。内装設計士と共に。
設計士を連れていったのは、建物をプロが確認し、その場で契約してもよいと判断したためである。
まずは1軒目(左写真)、昭和初期の町家建築だ。情緒はあるが、内装に無理があり(ボロボロで)断念。それに私は、大正又は明治期の建物を探していたのだ。
そしてこの日、京都伏見区にある2軒目の町家に向かった。
京町家は間口が狭く、奥行きが長いのが特徴である。江戸時代にその間口の寸法で税金が課せられたという説や、家全体の通気の説もあるが、定かなことは不明。
さて2軒目であるが・・・・・想像以上に素晴らしい京町家、いやその部類でもこれは“商家”(商人の家)なのだ!
明治中期に建てられたという屋根瓦が美しい商家である。間口は広く、ということは奥行きはもっと長い。そして家主さんに案内され、家の中へと入ってゆく。
江戸時代の旧道沿いにドンッと構えて建っている。
和室は7部屋あり、つい最近まで住んでいたのでキレイ。
明治期からのアンティークな家具がたくさんある。
明治時代からタバコと米屋を営んでいたそうだ。その名残り。
京町家(商家)の特徴的な坪庭。奥は立派な蔵が。
納屋には江戸時代からの家具や小物も。
玄関を入ると土間。精米機やらなにやらが。
商家ならではの蔵。その壁の厚さは約30センチ!
蔵の中は昔々の初めて見るものばかりが。
オマケ・・・
雑草だらけだが、建物を借りればこの60坪の畑はオマケだそうだ。
この商家は、京都で坂本龍馬が没してから20数年後の明治20年代の建築。その建った直後に日清戦争、そして10年ほど後に日露戦争が勃発し、バルチック艦隊を全滅させる(NHK “坂の上の雲”を見たもので、つい)・・・明治、大正、昭和、平成と、約120年間、この建物はさまざまな歴史を見ている。しかしそんな古い建物でも、ガッシリとしている。それは太くて頑丈な柱や梁(はり)に支えられているからだろう。
この器なら大島に結城の紬、京染め、そして印伝(いんでん:鹿革+うるし)のペアスロープ合作製品も生きるだろう。そして織り元旦那衆はこう言うだろう・・・「素晴らしい呉服店ができそうですなあ、、、」 と。ち、ちがうぞ旦那方!呉服店じゃあないっつうの! バイクウェア“も”販売するっつうの、、、あれっ?
2012年の正月から“京都伏見店”の公式サイト予告編を突然送信しております。皆さま、もの凄く和風な店になると思いますが、どうぞ呉服店と勘違いしないでください。
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