2006年4月3日 |
美味しい“ふくとひれ酒”をじゅうぶんに堪能した翌朝、バイクを引き取りに九州側の新門司フェリー埠頭に向かう。東京から2泊3日かけて早朝5時に着いた東九オーシャンフェリーから、すでにバイクは降ろされている。 GSFとゼファー、今回は“和”の旅にふさわしく、純国産を用意した。車歴10年を越えてしまったが、まだまだバリバリ元気なGSF-1200、そして2ヶ月前に納車されたばかりのゼファー750。共にいまだキャブレター、鉄フレーム、空冷&油冷の並列4気筒エンジン、レギュラーガソリン仕様、ついでにどちらもチタンマフラー装着。 外車じゃぁ、インジェクションじゃぁ、水冷じゃぁだめなんですわ、長州サムライの旅は、、、。 |
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九州の門司から関門トンネルを通り、下関 壇ノ浦に着く。その昔、このあたりは数々の争い事があった。なかでも、源氏と平家の“壇ノ浦の戦い”が有名であろう。本意ではないがここから先、少々歴史を交えよう。 遠い昔の平安時代、私の先祖が仕えていた源 頼朝(みなもとの よりとも)、その弟である義経(よしつね)を大将とした源氏軍は、一の谷(神戸)、屋島(高松)の戦いを経て、ここ壇ノ浦に平家を追い詰めていった。そして源氏には不利な海上での合戦となるのだが、義経は勝利し、平家を滅ぼす。幅千メートルもない海峡で、双方千三百数十隻の合戦。さぞかし壮大な光景であったろう。 でもねえ、素直に義経はスゴイって言えないんだなあ、これが。 当時の戦いに、礼儀や作法があったというが、義経はことごとく破っている。ここでも、船の戦いを不利とみるや、こともあろうに平家の船頭に矢を向けたのである。 海流の激しい関門海峡で船頭を失った平家の船は、ハンドルのないバイク。右往左往のうちに源氏の勝利。 ・・・ようするにインチキで勝ったようなもんで、現在なら反則負けだ。まあそれでも、ニッポンのヒーローの代表といえば、“義経”なんでしょうから、あまり細かい事は、この際、目をつぶろうじゃないか。 なお、その後、義経の最期については、当ツーリングメニューより、 “みちのくの義経と 極上の湯巡り”を覗いてほしい。 これもかなり濃いのは覚悟の上で。 |
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源平合戦をより詳しく知りたい人は、ここ壇ノ浦のみもすそ公園に来るとよい。ほぼ毎日、紙芝居で楽しめる。 |
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源平合戦 義経の像のすぐ隣りにずらりと大砲が並ぶ。江戸時代末期の長州砲(レプリカ)である。源平からの時は700年ほど過ぎるのに、たった数十メートルの距離にだ。 幕末の長州藩は、江戸幕府にとっては大問題児であった。とにかく言う事を聞かず、ケンカっ早い。しかしそれは能天気な幕府や外国の植民地支配による抵抗で、ニッポンの国を思っての正義に他ならないだろう。 とは言っても、福島県会津には、今でも長州だいっ嫌いな人たちがいると聞く。幕末時、会津藩はこてんぱんにつぶされたから。 数年ほど前、倒幕から130年以上が経ってから、会津と長州の人達の仲直りの会を開くことになったらしいが、物別れに終わった・・・というテレビニュースを見たことがある。いまだに和解ができない両地域なのだ。 1863年の江戸時代末期、海峡を通過するアメリカ、フランス、オランダの船に次々と大砲をぶっ放す。当時の藩の大砲の威力では、沈めるには至らず、各船は逃げ帰る、、、が。 しかしその仕返しは、イギリスを加えた4国連合艦隊となり下関にやってくる。迎え撃つ長州藩だが、旧式の大砲は船には届かず、逆に射程距離の長い艦隊の大砲にやられっぱなし、じつにショボイ負け戦であった。 でもその敗戦に懲りるどころか、藩は高杉晋作(たかすぎ しんさく)に武士、農民や町人の区別ない軍隊、“騎兵隊”を結成させ、坂本龍馬から新しい武器を手配させ、江戸幕府軍とも戦った。そしてかつてケンカ仲間だった薩摩藩とともに幕府を倒し明治維新、のちの日本を作ることになる。 すごいねえ長州藩は。なにがって、今風に言うなら、アメリカ、フランス、オランダ、イギリスの各連合軍と日本政府の自衛隊を敵として戦う、本州最西端の小さな“山口県”の一部地域。今じゃ想像できない破天荒な戦い方だ。 |
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壇ノ浦からそう離れていない巌流島にも、足を踏み入れてみたかった。 だがしかし、救急車を呼ぶか呼ばないかを迷っていた状態では、断念せざるをえない。(なぜ呼ばなかったかは、どおせぶち込まれるなら、2、3日後に訪れる“津和野”か“萩”での入院がカッコいいかな、な〜んて本気で思った。) そして後ろ髪を引かれる思いで、激痛に耐えながら関門海峡をあとにする。 次の目的地、岩国までの約150km、それはもう、蛇行しながら、真っすぐ走るのがやっとの状況。こうなってみて初めて感じる。・・・健康がなにより、ってのを。 |
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