2006年4月3〜4日 |
下関から高速道で激痛の2時間。しかし幸運にも岩国 錦帯橋(きんたいきょう)を目にする頃には腹痛がおさまっていた。 ここ周防(すおう)岩国は長州藩ではないが、中国地方を支配していた戦国の武将 毛利元就(もうり もとなり 1497〜1571)の子息の養子縁組を祖とした、長州の支藩とも言える。 だがしかし、双方とも“関が原の戦い”で豊臣秀吉の西軍につくが、岩国藩は徳川家康の勝者東軍に内通していたと、長州 毛利家は裏切り者あつかいしていた。戦いののち、徳川幕府は毛利家の取り潰しを図るが、岩国藩はそれに反対し、長州藩は存続する。 それから250年ほど過ぎた、幕府による長州征伐でも、幕府と長州のあいだに立ち、幕府の派兵阻止を試みるが、これもやはり長州藩は裏切り行為としかみなしていなかった。 どちらからも認められない可哀想な岩国藩。ほんとにいいヤツだったにちがいない。 |
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Photo:sakagami |
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岩国といえば日本三名橋、三奇橋の“錦帯橋”である。 1673年、第3代岩国藩主・吉川広嘉(きっかわひろよし)によって創建されたが、翌年早くも豪雨で流失。同年、丈夫に改良された2代目を作り、なんと276年間、昭和25年まで健在。現在の橋は、平成16年に完成した4代目。 その魅力はなんといってもアーチ型をした5連の木造構造にある。長さは、橋面にそって210m、直線で193m、幅5m、橋台の高さ6.64m。そしてそのうしろに従える風景。橋を見守るかのように立つ岩国城、錦川のゆるやかなせせらぎには桜並木を写す。 しかし残念なことに、ここに訪れた4月3日の桜は、まだ5分咲き。今回の旅は、錦帯橋辺りの桜の開花宣言、その1週間後を故意的に狙って訪れた。本来なら見頃のはずだが、運悪く寒波が来て5分咲きのまんま。寒波こんちくしょう、大損した気分である。満開なら、さぞかし美しかろう。 |
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メジャーな錦帯橋の写真ばかり撮っていたら極めてシロウトっぽくていけない。ここは城下町、いまだ健在の武家屋敷や岩国藩主歴代の寺でも巡ってみようかと走り出す。 そういえば宿の主人から聞いていた。錦帯橋の川沿いの桜よりも、屋敷街のほうが咲くのは早いと。案の定、満開に近い状態だ。 うろうろしていたら、おっと、突然現れる長いカタナを振りかざした像、、、“佐々木 小次郎” ではないか! 小次郎は安土桃山から江戸時代初期の剣豪で、初めの頃は毛利氏に仕え、ここ岩国の錦川で空を飛ぶ燕を斬り、必殺技である “ツバメ返し” を編み出したとされる。そしてその後、例の下関 “巌流島の決闘”で宮本武蔵に敗れるのであった。 腹痛のため、巌流島へは行けなかったが、ここで会えるとは思わなんだ。武蔵はいないが、ちょっと得した気分だ。 |
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さて、カメラマン坂上修造とはここ岩国でお別れだ。ここから先、我々夫婦坂の二人は津和野、萩へと旅がつづき、修造さんは車を自走して東京へと帰る。 3日間の撮影、たいへんご苦労であった。数々の立派な写真を褒めてつかわす。(いつのまにか武将言葉に) 修造さんは、いればいるで、あっちにバイク置けだの、こっちに立てだの、あ〜だこ〜だと小うるさいオヤジだが、おかげ様でこのツーリングサイトにも素晴らしい写真を載せられる。 修造さん!、美味い美味いトラふぐをたくさん食べたことや、ひれ酒を私と同様に4杯も呑んだこと、家にお土産だとトラふぐ料理セットを探していたが、高いからフグまんじゅうで済ませたことなどなど、武士の情けだ、けっして奥さんには言わないでおこう。 おそらく、家に帰るなり 「ペアスロープの撮影は飲まず食わずでしんどかったぁ〜」 なんて言うのだろうから。 |
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今までの写真でウエアがころころ代わっていたのは、クローゼットカーが同行してたから。修造カメラマンはこの車で東京へ。 |
ここからは2台の旅となる。それにしてもゼファーばかり写されて、私の油冷GSFは可哀想に蚊帳の外。 |
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これまでは、私と坂上カメラマン(Photo:sakagami 表示)の写真をお贈りした。この先の道中はプロカメラマンがいないので、写真のレベルダウンは避けられないが、気合いと心のこもった写真でまだまだ長州をご案内しようと思う。・・・あらかじめ言い訳しておこう。 |
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