|
|
2006年7月25日発信 写真:坂上修造と三橋 | |
鹿児島市の街中にある関絹織物を訪ね、その大番頭 関健二郎氏の初めのごあいさつが「わいたっ、ないしけ来たとぉ!」(おまえら、何しに来たんだ!)。 いや正確には言ってないが、バリバリの敵対心、顔で、身体であきらかにそう表現していた。そして大島紬を売ってちょうだい!にも、「ほかにたくさん織り元があるでしょうが!」「ここを関絹織物と知って来られたか!」・・・とにかくプライドが高く、背が高く、幅も広い。氏が席を外したすきに同行の尾原なんぞは「やばいっスよ、負けっス、もう撤退しましょっ」なんて言う始末。 「馬鹿やろ〜、源氏(の家来)の末えいの東京モンが、そう易々と引き下がれねえんだよっ」。後に氏が「私の先祖は平家の武士」と名のった時点で勝負あり。・・・ふぉっ、ふぉっ、ふぉっっ、歴史的にも平家は源氏に負ける。。。 ・・・すったもんだの訪問記はツーリングサイト“薩摩”を読んでいただくとして、その翌月にもこの織り元に再訪問している。 「よお〜 おさいじゃひたもしたぁ」(よく おいでになりましたぁ) ん? あのツッパリも敵対心もすでにない。な〜んだか寂しい気もするが、ケンカしに来たわけじゃないのだし、、、「平成の“平”は平家の平!」・・・なぁんだとぉっ! |
|
そうそう偶然にも、初回に同行した四国グローブ担当:尾原も、源氏と平家には十分にかかわっている。彼の自宅は先祖代々高松市の“屋島”。 平家の挑発で那須与一が矢で扇を射落としたので有名な“源平 屋島の戦い”の地である。そしてまた、義経(よしつね)の身代わりで矢に討たれた佐藤継信(つぎのぶ)の墓のとなりが祖父母の家という濃さ。なおついでに言えば、尾原の奥さんは長州(下関市)の出身。なんとなんと、薩摩、長州、江戸に、源氏と平家がそろいぶみ。 しかしぃ、、、尾原の先祖が源氏と平家、どちらに加勢していたかは定かでない。関絹織物宅で、関氏と筆者のどちらの言葉にもオドオドしていた尾原なのだから、きっとご先祖様も・・・?かな。でも言い換えれば「平和」な家系か。 「平和の“平”は平家の平」・・・どぁれだ〜、そんなことぬかすのは! |
|
|
なんだか脱線もはなはだしく、長い前置きになってしまった。そろそろ本題に入ろうか。 初めの訪問では健二郎氏との格闘時間が長く、絹織物、そしてそれを作っている行程の写真をまともには撮っていない。また、その時は代表である関順一郎氏(健二郎氏の親父殿)が留守でお会いできなかったので、再撮影を兼ねプロカメラマンである坂上のオッサンを連れてまた訪れた(今度は往復飛行機)。 「ここより立入り禁止」の張り紙を横目に、一階の工房へ。前回同様、やはり目に飛び込んできたのは、美しく染色された淡く光り輝く絹の糸である。 |
|
関絹織物の絹の糸は、ニッポンの蚕(カイコ)を使う・・・これをひと言で言ってしまうのは簡単だが、本場大島紬だけでなく日本の絹織物全体の比率でも、国産カイコ糸の使用は、いまや5%にも満たない。日本の養蚕(ようさん)業は衰退し、9割以上を中国やブラジルに頼っているのが現状。群馬県赤城から送られる関絹織物のカイコ糸は、高価だがモノが良い、、、そう、単純な理由で使うようだ。 なお、一般的に織り元工房は織ることが仕事なのだが、ここ関絹織物では泥染め以外のほとんどの行程を自社で行う。 |
大島紬はタテ糸とヨコ糸の平織り。これはタテ糸を操作し、織り始める準備。根気のいる作業だ。 |
一階の工房では、健二郎氏の親父殿と兄貴殿が作業をしている。まずはご挨拶をして写真を撮らせていただく。ご両人とも、まったく無駄口を言わず、もくもくと手を動かしている。恐れ多い気がして質問すらできない気配だ。 「さすが薩摩男児、多くを語らず、結果が真実」 と敬服するも、隣りにはよくしゃべる健二郎氏が機関銃のように作業説明を連発する。 |
シャリン、シャン、バッタン とハタ織りをしている親父殿、今まさに織られている絹織物も美しいが、その着ている作務衣(サムエ)も気になった。軽く、しなやかで動きやすそう。そして淡い輝きがこれまた美しい。「あれは?」と健二郎氏に尋ねたら、自社のものだと言う。シロウトでも分かる綺麗な作務衣だ。 健二郎氏も作務衣を着ていたが、親父殿とはちょっと違うのでそれを聞いたら、「私も兄貴のも自社製ではないのです、、、」 ・・・親父殿くらいの風格がなければ、自社といえど、そう簡単には着れないようだ。それほど関絹織物の大島紬は格調高い。 5月、6月と二度にわたってハタ織りを間近で見るが、やはり童話“鶴の恩返し”が頭から離れない。織っている人が若い女性ならなおさら感動もんだが、「うちで織っている最年少の女性は60歳です」と言われるように、男女問わず、織物にたずさわっている者に高齢化が進む。大島紬だけのことではなく伝統工芸の維持はニッポンの悩みであろう。 |
|
鹿児島から直線で1800km(陸路は3000km)の北海道 釧路の丹頂鶴 大島一浩カメラマンより画像拝借 |
|
|||
|
|||
|
撮影のあと、鹿児島市の繁華街 天文館で馬刺し、黒豚、芋焼酎の打ち上げ。 健二郎氏と初めて会ったときには、1分間に10回以上の専門用語を連発され、訳分からぬまま撃沈された。しかし今はちがう。絹の糸を知るために養蚕農家に行き、鹿児島を知るために芋焼酎をたくさん呑んだ。絹織物についての数々の教養を身につけてきている。でも1分間に2〜3回は難しい専門用語を発する健二郎氏、、、ぜったい故意にちがいない。昔から恒例の平家の挑発行為はお見通しである。 「今のニッポンは我々が作った」と憎まれ口もたたく。なに言ってやがる、生麦事件から薩英戦争と薩摩が勝手にイギリスと戦争し、犬猿関係の長州と突然仲良しになって、江戸を征服。そして明治維新となり近代日本を築く・・・なんだ、悔しいが間違っちゃいないか。 それにしても健二郎氏みたいな骨太の人間は今やめずらしい。ついでにいつまでもツッパリ通した素晴らしい本場大島紬を末永く織り続けてほしい。いや、お願いをしたのだからお詫びもしよう。・・・「私の先祖の源氏が、平家を滅ぼしてしまってスマン。」 |
|
「手間を惜しんだら 良いものはできません」 | |
|
|
|
|
|
<< 絹の道メニューに戻る | 機械織り編 >> |