2006年8月15日更新

  “てぐす” という糸がある。あの釣り糸や手術糸、モノを吊るす糸が “てぐす” である。
 その “てぐす” を漢字では “天蚕” と書く。・・・そう、繊細でありながら強度ある天蚕(てんさん)糸は、共通の意味を持つ、てぐす、の語源でもある。
 さて、繊維のダイヤモンドと呼ばれる天蚕、なぜダイヤモンドなのか、いったいどんなカイコなのだろうか。
 ・・・信州、安曇野穂高にその答えがある。

 「カイコを知らずして大島紬を語るべからず!」 と、でっかいカラダで、態度で、表現しなさったのは、あの薩摩の関絹織物、健二郎氏。こちらの無知をよいことに 「 “天蚕” ってカイコ知ってる?」 とも。
 そこまで言われちゃあ、東京者の名がすたる。よし、この目でみてやろうじゃないの、、、というのが天蚕にめぐり合うきっかけである。
 天蚕は山繭(やままゆ)、地元ではヤマコと呼ばれ、日本の野山に生息する。白いカイコ虫・家蚕の原産地は遠い昔の中国だが、天蚕はまさしくニッポンの天然固有種のカイコ虫。安曇野市穂高では二百数十年前から天蚕飼育が行われている。
 しかし、よくよく調べれば調べるほど奇妙で、しかもとんでもなく希少で、美しくもあり、恐ろしく高価な糸だと分かる。それが繊維のダイヤモンドと言われる由縁だろう。

 7月4日、全国で最も多い生産量だといわれる信州安曇野、穂高の農家にカミさんと向かう。なぜか「俺もナゾの虫、見て〜え」と、弊社カタログのコピーライター、石野もついて来た。都内から中央高速をぶっ飛ばし(といっても単コロの250も1台有)、3時間少々で穂高に着いてしまう。
 作戦会議がてらに昼飯を食ってから、天蚕組合長の等々力さん農家に行き、さっそくおバアちゃんに飼育場に案内していただく。70代半ばと聞いていたが、車をブンブン乗りこなす元気なおバアちゃんである。
 先ほど穂高が全国一の生産量と書いたが、少々過去の資料で、2006年現在はどこが全国1位だか不明。しかしたったの8農家しか天蚕を飼育していない穂高有明地区が全国一の可能性は高い。あやふやかもしれないが、それだけなぞ多き天蚕ということであろう。
最高速度、たったの130km/hの単コロ250でも、3時間ほどで穂高に着く。(ただし全開)



「穂高っていえば“そば”でしょう、なんで天丼なのさぁ!」 自分の長い顔よりなお長いエビ天をほうばる石野。穂高で“そば”じゃ、普通すぎて面白くないやね。







おバアちゃんは組合長であるご主人(85歳)と二人で天蚕を飼育。6月のある日、おバアちゃんちに電話したのが始まり。「うちのヤマコ(天蚕)見にくるかい?・・・」

あの白いカイコ(家蚕)とちがって、天蚕は野外で飼育されている。このブルーのネットの中に目的の虫がいるのだ。

さて、世にも希少な“天蚕”にご対面。
しかし、
いきなり大きな画像ではおどろく人もいるだろうから、
少しずつ拡大。














 ど〜です、天蚕! ものすごくきれいなグリーンでしょっ。長さは大人の中指ほどで、太さはそれ以上。家蚕カイコの倍? いやこんなにデカいイモ虫を見るのは初めてだ。グロテスクというより、とにかくその色の美しさが際立つ、、、それしか表現できない。
※家蚕の幼虫は約5g、対して天蚕は20gにも達する。


 等々力のおバアちゃんは、同業の古田さんご夫婦を紹介してくれた。
 古田さんのご主人は東京生まれ、千葉で土木設計技師の仕事をしていたが、いつの日か天蚕に魅せられ、定年後この穂高有明に移り住み、天蚕飼育を営んでいるという。市役所に勤務していた奥さんもよくついてきたものだと感心するが「虫が好きなんです」と。
 その古田さんの飼育畑、ネットの中にはクヌギやナラが整然と植えられ、その木1本に10頭ほどの虫が葉を食べている。 あの白いカイコ(家蚕)は、人が桑の葉を取って与え続けるのに対し、天蚕は植えてある木の葉を勝手に食ってるのだから、手間はないだろうと思うのはシロウトの考え、人の手を加えなければ天蚕は育たないのだ。
 
 天蚕はとにかく弱っちょろい虫。ネットを張っているのは、天敵である鳥やハチから守るためだ。それでも悪知恵のあるサルはどこからともなく入り込み、なぜか虫の頭だけを好んで食いに来るという。
 「矢ノ口さんとこの畑では、サルに食べられないように、おバアちゃんが朝から夕方まで番をしてるんだよぉ」 いやいや、天蚕よりおバアちゃんがサルに襲われないかが心配だ。

 人が手を加えるのは、天蚕自身の行動にも問題がある。
 虫はひとつの木の葉を食い尽くすと、隣の木に移動する。その時、地面をはって歩くのだが、暑い日にはその地面でヤケドしてご臨終。また地面には小さな天敵、アリに攻撃される。そしてまた迷子になって餓死してしまうパターン等々。それらを防ぐために、つねに人の手で虫を移動せねばならない。幼虫時は毎日毎日、虫ひろいが主な仕事だ。 
乗って来たゼファーのライムグリーン キーホルダー(自分用特注)。偶然にも天蚕の色に酷似。さすがカワサキ、天蚕カラー。


虫の番をする古田さん。


地面にいる虫を見つけると、ゴム手袋をはめた手で優しくつかみ、木に移動させる。


オレンジのタコみたいなのは、サル除け。そんなものでサルは怖がるのか???



攻撃する術を持たない天蚕、唯一の防御は“擬態”。擬態とは他のものに姿を似せること。天蚕は“葉”のふりをしているが、鮮やかすぎてバレバレ。
葉を食っている写真を撮ろうと、枝をちょっと動かしたら、おくびょう者の天蚕は固まってしまった。

淡いグリーンの美しい糸を出し、繭を作り始めた虫もいる。


繭作りから3日もすれば硬くなり、出荷も近い。


 「わたしんとこの虫も見ておいで」と、林の中のおバアちゃんの飼育畑に案内される。「この林はカブト虫がいっぱいいるよぉ」にも、興味を示さない我らがおバアちゃんのあとに着く。

 古田さんとこと同じようにネットを張った飼育畑では、真っ黒に日焼けした穂高天蚕組合長のおジイちゃんが虫の世話をしている。地面の虫を拾っては木に乗せる、なんどもなんどもその繰り返し。とても80代半ばには見えない。
 「わたしらねえ、虫の世話、今年で終わりにしようかと思ってんの。もう歳だしねえ・・・」
 おジイちゃんの身体を気遣い、寂しそうにおバアちゃんが言う。当然、あと継ぎもいないのだから、この畑もなくなるのだろう。そう言わずもっと頑張ってくださいよう、などと部外者の無責任なことは言えない。
 穂高の天蚕飼育は二百数十年前から続いているが、実は第二次大戦中には途切れている。それを戦後に復活させるため先頭に立ったのがおジイちゃん。
 「うちのひとがねえ、戦後、山深く入って天蚕を捕りに行ったの。穂高周辺だけでは足りず、富山県まで行ってね」 それはもう並ならぬ苦労である。そして現在に至るが、今年で、、、。
穂高の天蚕組合長の等々力さん。

先ほどの古田さんはゴム手袋だったので、「手づかみでいいんですか?」と尋ねたら、「わしは手袋がきらいでな・・・」

おバアちゃんも手づかみだった。


ライムグリーンの天蚕。だからカミさんと私はカワサキのバイクで穂高に来た。これ基本。 なお失礼にも、石野はアメリカのバイクだ。


見慣れてくると天蚕のなんと可愛いことか。おバアちゃんは「この子はねえ・・・」と言っていた。まさしくこの子が“繊維のダイヤモンド”といわれる、美しい糸を恵んでくれる。


 さて、繭を作った天蚕は出荷され、600〜700mものその糸を取る工程で死んでゆく。
 「昔はね、天蚕のサナギを食べたんだよ」と、おバアちゃんが言うように、戦争時前後の食糧難で、動物性タンパク質の補給源になっていた。美しい絹糸だけでなく、人の栄養をも満たしていたのだ。だから、家蚕、天蚕を問わずどこの養蚕農家でも 「おカイコさん」 「おカイコさま」 「この子」 「あの子」 と敬意を表しているのだと思う。
サナギを「仏様みたいでしょ」と、等々力おバアちゃんが言う。いわれてみれば、気のせいかそんなふうにも見える。


現在は動物性タンパク質の補充は豊富にある。もうカイコを食べることはないのだろうと思ったが。。。実はそれをいまだに食べている一家が身近にいた。
臨時サイト・・・絹の味
(ここまでの話が途切れるので、最後にご覧を。)


 そういえば、モスラの話のつづきをせねばならない。家蚕の幼虫は確かにモスラに酷似しているが、ガとなった成虫は真っ白で、飛ぶこともできず、まったくの別ものである。
 しかし、、、天蚕の成虫はまさしくモスラのモデルだ(と思う)。その根拠は、
1. 飛ぶことができる。
2. 最大羽幅18cmにもなる大きさ。
3. オレンジ系茶褐色の色、容姿。
4. 羽の模様がなんとなく似ている。

 以上、新しい発見でもあった。
8月11日、成虫を見に再び穂高に行く。翌年用の天蚕飼育の為、雄と雌がカゴに入れられ、やがてタマゴを生む。

でかい。両翼18cmほどあるモスラ、いや天蚕の成虫。



 穂高は天蚕の飼育だけではない。その糸で “有明紬”という織物も同じ地域で織られている。そして天蚕100%で織られた一反(きもの一着分)の価格は、最低価格でも百数十万円 といわれる。 高い!と思います? 
 ・・・でもしかし、等々力さんや古田さんが約4ヶ月天蚕の世話をして、その農家1軒の生産量は2005年現在では繭二千個。それは一反分でしかない。それを何十日もかけて手で織ってゆく手間を加算すると、そんな金額になる。早い話が農家一軒で年に1人分の織物しかできない。
 東京八王子の家蚕農家の長田さんの言葉を思い出した。養蚕の仕事は 「とてもとてもサラリーマンの月給にはとどかないんだよぉ」 と。
 確かにできあがった綺麗な反物は高価だが、その元となる養蚕は、労働のわりに収入は高くない。だから後継者ができず、養蚕業は激減か。
 ・・・特に天蚕のような希少なニッポンの伝統文化、いったいいつまで守れるだろうか。。。そう思ったら、天蚕で何かを作りたくなった。かなり無謀にも。

 天蚕をじっくりと見た翌日の朝、等々力組合長さんに話を通していただき、天蚕事業主である安曇野市、穂高の役場で天蚕糸を購入手続きをして、東京へ帰る。


安曇野市穂高の役場にバイクで参上。


 7月中旬、信州安曇野 穂高から到着した産地証明付 “天蚕” 糸は、さっそく鹿児島の関絹織物に送った。
 ニッポンの家蚕と、ニッポンの固有種 天蚕をほどよく融合させ、極上の本場 大島紬 を完成させるという寸法だ。



 「ほんとに買ってきてしまったのですねえ」と困った声で織り元の健二郎氏。日本で最も歴史が長く、最も多く織り元が存在するメジャーな本場大島紬といえど、こんな高価な天蚕を使うというのは聞いたことがないという。当然、関絹織物の工房も初めてのことで、武者震いの毎日であろう。
 そして8月上旬、健二郎氏から、こんなメールが届いた。
 夫婦坂糸 大事に使います(私自身は すでに テンパッテます)
 返信が来なくなったら 多分 ばばぬきの 投げ出しと思ってください
  そして 鹿児島に あんな人いたなあ〜と 思い出してください    

      えせクリエイター   関 健二郎        
・・・[ 原文 ]

・・・これ、弱音ではないだろう。
 きっと何か健二郎氏(平家)の妙な挑発行為に違いない。この男が中途半端なことで投げ出すわけがない。 やるときはやる! 薩摩男児ここにあり! 
(と、プレッシャーをたっぷりかけておこう)



さて、いったいどんな極上の織物ができるのか、、、
それを使って何を作るのか、、、

究極の作品、2006年の晩秋には公開できることでしょう。



ご期待ください。


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