2009年9月下旬

 秋の気配が漂い始めた9月下旬、カミさんと我が娘との3人で10月上旬に北海道に行こう、と決める。
 北海道はこの春に走ったばかりなのに、といっても、青森県弘前城の桜を見たほんのついでに一泊しただけ。でも今回は二泊としようじゃないかと。(+船中二泊)
 ・・・どちらにせよ、なんともったいない旅だ。北海道を愉しむには道内4〜5泊ほしいところだが、仕事の都合ってもんがあって、思うようにはゆかない。短い滞在だが、日本列島で一番早いとされる、北の大地の紅葉をひと目見れば、それでいいのだ。


“ドリーム大田”。本田技研の直営系ショップはちょっとクールな印象だが・・・?







当然ながらホンダの国内仕様のバイクしかない。そしてそれらが雑然と並ぶ。バイクの愉しさの演出が少しほしいかな・・・?






となりのスーパーカブですらインジェクション。これが最後の空冷キャブ車、私が買ったCB。
 北海道に向かう10日ほど前のことだ。その準備の買い物で東京都大田区の国道1号線を走っていた。すぐ先の信号が赤になり減速すると、横に見慣れぬ大きなバイク屋。いつのまにやらオープンしたホンダ専門店、“ドリーム大田”である。
 個人的に近年のホンダのバイクには興味はないが、ま、今日はヒマなことだし、ちょっとヒヤカシでも、とショップに入った。
 その店内にはピッカピカの新車CB750があった。昔乗ってたCB750F-Cのカラーリングだ。風の便りに生産終了だとは知っていた。
「まだ売ってんだねえ、これ」
 と店のスタッフに話せば、
「ええ、ウチのグループ店でも最後の数台のうちの1台なんですぅ。もう、空冷キャブ車は、泣いても笑ってもこれでおしまいなんですぅ」と。
 そうかぁ、国産ネイキッドナナハン、他の3メーカーにはすでになく、これで最後になっちまったのかあ。と思いつつも、そのスタッフに目をやれば、まだなにか言いたげだ。おそらく 『お客さ〜ん、このCBを買い逃すと、もう新車は手に入りませんぜぇ、一生後悔することになりますぜぇ、どうしますぅお客さ〜ん!』 と、目で語っていた。
 答えを出すには10分もあれば十分だった。空冷キャブ車は好きだし、一生後悔なんかしたくないし、我が家にはゼファー750があるけど、似たようなのがもう1台あってもいいかな、で、「これ買う!」。
 幸いなことに買い物途中だったから、手付金の数万円はあった。目的の買い物はできなかったけど、旅の相棒がまた1台増えた。

「そうだ、京都、行こう!」とはJR東海のコマーシャルだが、「そうだ、CBとゼファーを北海道に連れてゆこう!」 てことで、2台のナナハンが旅の直前でそろうのである。
 ・・・さて、カミさんにはなんと言い訳しようか、、、仕事の何百倍も頭を使うのは言うまでもない。


 正直に言ってしまうと、購入したCB750には今まで興味がなかった。もっときつく言えば、まったく眼中になかった。「教習所のバイクね」ってそんな感じだろうか。申し訳ないことに。
 とはいえ衝動買いをしてしまったのには、その場の店内、CBを前にして心に響いた何かがあった。それは空冷キャブ、というだけではないのだ。
 振り返ってみれば、過去に私はCBを4台乗り継いでいた。高校時代に先輩の中古を格安で買ったCB750K3が最初。そしてK6。その後、CB750FZ、CB750FCとつづく。あの頃はバリバリのホンダファンだったんだなあ・・・。






高校2年の17歳から26歳まで、ず〜っとCBに乗っていた。現在とはちがい、二輪通行禁止道路は多く、高速道路はニケツ禁止・80キロ制限など数々の制約はあったが、それら以外では自由だったような。そんなワンシーンを昔の写真をアルバムから引っ張り出してみた。

CB750-K3
1974年、この頃はノーヘルでもキップを切られることはなかったが、マッポ(警察官)と目が合うと「こっちこい!、免許証!」と、けっして敬語は使われず、呼び止められたものだ。(めんどくさいのでたまには無視して逃げた)
なお、ノーヘルは写真を撮るためで、普段はヘルメットをかぶっていたことのほうが多い。



CB750-K6
高校卒業後のデザイン学校時代、K6では日本全国を走り回った。1978年のこの写真は、本州グルリ旅の途中の国道121号米沢〜会津間大峠付近(現在は通行止め)。国道といっても、当時は未舗装によく出くわした。


CB750F-Z
1979年、かっこいいFが発売され、一目惚れしてK6から乗り換えた。箱根大観山での2台は、ブルーが私のF、レッドはダチのF。そのダチ“H”は、大のヤマハファンでありながら、Fの魅力に負けて大学生の分際にもかかわらず購入。
2009年現在、H はヤマハ発動機の某部所の部長なんぞをしている(ヤマハ社員の人にはバレるかな?)。現在でもたまに会って飲めば「もっと愉しいバイク、作れよなっ!」、そればっかし。


CB750F-C
ダチのHがヤマハに入社したので、私はホンダのグループ会社でウェア中心の某社(後に本田技研に吸収)に入社。その為F-Cはカタログ撮影車を格安で確保。
雨が降ってないのにレインウェア着用は、試作品テスト担当である私の高速走行テスト。ライディングウェアデザインもしていたが、当時の純正ウェア走行テストは、ほとんど私だった。・・・1982年






 衝動買いした後日、ゼファーでドリーム店に行ったら、すでにノーマルマフラーは外され、納車整備の真っ最中だった。そう、ゼファーと同じようなモリワキのショート管マフラーを装着しているのだ。※ゼファーは古〜い鉄製。CBはメーカーオプションのステンレス製。



ドリーム大田、今泉店長。
 CB750を買ったドリーム店、上記初めのほうでクールな印象だとか、バイクの展示に愉しさがないとか、言いたい放題書いてしまったような気がする。事実、第一印象がそうだったし、かつて私がホンダにいたことがあるので、より厳しい目で見たのだろう。
 若い頃、バイク屋に行くと「こんちわぁ〜」とこちらが先に挨拶し、奥で油まみれのオヤジに「おぅ!」と返される。どこにでもあったバイク屋の光景だ。このドリーム店(他店もそうだろう)のように、視界に入るスタッフ全員から「いらっしゃいませぇ〜」などと言われたことがなかった。その挨拶は良いことなのだが、それでもなぜクールな印象を受けたかのかを考えてみると、その大きな店構え、そして蛍光灯がずらりと並び、その冷たい光は、ビジネスオフィスのように感じたからにほかならない。私にとってバイク屋という存在は“遊びの起点”なのだ。昔も今も。

 ・・・ところがところが、である。クールな印象は店舗だけで、スタッフと話をしてみれば、これが皆さん温かい。ずいぶん店構えとはギャップがあるのだ。
 ホンダのバイクのことなら、もちろん私の数百倍の知識はあるし、困ったこともめんどくさがらず応えてくれる。なにより皆さん自らバイク好きなのが嬉しい。
 なんだかけなしたり褒めたりしてるけど、やはり器より人。でも〜、器も温かみがあれば、もっとお客さんが入りやすい店になるんだがなあ。そしてその器に入る品物(バイク)、ホンダさんよぉ、もっともっと頑張ってほしいなあ、愉しいバイク作りを。かつての主役、CBナナハンが泣いてますぜぇ〜。。。





たったの2年弱だけど1980年代前半、20代半ばまでホンダの某セクションに在籍した。正直言って通勤していた原宿本社ビル内(現在は青山本社)にバイク好きは少なかったけど、それでも社内仲間とよくツーリングを愉しんだものだ。


これは本田技研原宿本社・東京支店・朝霞研究所合同ツーリング(私はそれ以外のセクションだが、こういう時はなぜか呼ばれる)。2009年現在、皆さんすでに50代・60代前半のはず。この中には偉くなっちゃってる人たちがいるんだろうなあ。(弊社にご来店くだされば粗品あげます。夫婦坂手ぬぐいだけど)



これは本田技研西東京営業所による小規模ツーリング。左から4番目、ひとりだけ革ツナギ着てるのが私。愉しい人たちばかりだった。(これまた来店くだされば粗品あげます。)

当然だがホンダのバイクにホンダのウェアばっかしの上記ツーリング団体。



モトクロス草レース:成績悪く、さえない顔の31番は私。左はカミさん。でもこの頃はクチも聞けない他人。
私のセクションの仲間との林道ツーリング。ヤマハ乗ってるアホもいる。(右の2台がヤマハ。そのうち1台は筆者の)



なんだかんだと愉しかったホンダ時代でした。





 CBがドリーム店で納車された。その時点でモリワキのマフラーに換えているので、ノーマルの排気音はまったく知らない。
 ドリーム店を出て、真っ先に向かうは改造屋松永君宅。センタースタンドを撤去し、ガソリンタンクを外して電気配線をちょいといじくる(チューンでもなく、違法行為でもないけど、なぜか理由は言えない)。そしてリアサスを外して寸法を測る。そう、もっと性能の良い社外品と交換するためだ。ゼファー750用は多くラインナップされてるが、CBはサスを換えるような者が少ないためか、まともな社外品は少ない。いずれゼファーと同じくオーリンズの高性能リアサスを付けたいが、さあ、いつになることか?

 こうしてCBはギリギリで北海道旅に間に合った。あとは天気予報を確認してフェリー、宿を予約するだけである。


我が家に着いたCB。奥から、スズキのオフ車ジェベル、ヤマハの2ストR1Z(ともにタンクべこりは息子が転けて)、そして1966年式のスーパーカブ。OHC初期型でかなりの歳だがキック一発、いまだ現役。


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