2013年6月4日
「三鉄」(さんてつ)、いや“三陸鉄道”をご存知だろうか。え、知らない? では簡単に説明を。
三鉄には久慈から宮古に至る北リアス線と、釜石から盛(さかり)に至る南リアス線がある。2013年7月現在、どちらもあの震災による不通区間はあるが。そしてどちらもがJRではなく半官半民の第三セクター鉄道である。ではなぜ「三鉄」を解説するかと申せば、立派なのだ。その理由は後ほど、、、。
あっ、“三陸”についても説明しなくてはならない。江戸時代までの三陸地方とは、今の青森県・岩手県の全域と、秋田県・宮城県の一部地域をいうが、現在では岩手県と宮城県北部の海岸沿いをそう呼んでいる。だから現代流の“三陸”で通そう。
なお、正確には三陸海岸全てがリアス式海岸ではなく、宮古から北が“海岸段丘”、南が“リアス式海岸”である。さて、前置きはこのくらいにして、今夜の宿、宮古に向かおうか。。。
久慈より三陸海岸線を南下。
三鉄の北リアス線久慈駅がスタート。
“道の駅 くじ”で昼飯を済ませば、いよいよ三陸海岸の旅が始まる。そのスタートは三鉄へのご挨拶も兼ねて三陸鉄道久慈駅とした。
久慈駅もその周辺の街並も震災による津波の爪跡は見られない。この辺りは海から2キロほど離れているからだろう。
駅を出発して国道45号を15分ほど走ると、遠くまで見渡せる平地に出る。見渡せるというのは眺めが良いというのではなく、津波で建物や木々が消えうせているから。
砂煙を舞い上げて、ひっきりなしにダンプとすれ違う。ガレキ処理の真っ最中なのだ。
前方のクルマに注意しながらわき見運転をすると、左側にちらりと海が見える。真っ青な海面が見えるところは、防波堤が津波で破壊されたところだ。
そんな洗礼を受けながら、ほんの3分ほど走ったくらいで気が重くなってきた。「サイフのヒモを緩めよう」なんて軽い気持ちで来た事が申し訳ない。
だがしかし、国道のすぐ横を通る復旧された「三鉄」の線路を見ると、「いやいや、前向きに皆さん頑張っているのだ。今、できることは、サイフのヒモを緩めることだ!」と、当初からの考えに念を押す。
三鉄と国道との交差地点:広々とした平地は復旧工事の真っ最中。その中を作り直した三鉄の線路が延びる。ここで元気に走る列車の姿を写せれば言うことないが、この線路を見ただけでも、頼もしく、嬉しく思える。
三鉄と交差した国道は一瞬真っ青な太平洋を望むが、やがて海岸から離れ、丘陵の林の中へと道が進む。国道45号線は海岸線のすぐそばを通るが、海を見ながらという道は少ない。
海岸線を離れる国道。
少々走れば、また海岸線に出る。
林の中を快走。
国道45号線には、この標識がいたるところにある。
三鉄、走ってます。
国道と平行して走る三鉄は見え隠れするが、そのなかでもビューポイントがある。それは小さな漁港のある高架橋。ここで三鉄列車を撮ろうという作戦である。
しかし午後3時を過ぎ、撮影ポイントでの列車は無情にも逆光(太陽がレンズ方向)、さてどうしたものかと考えたが、坂上カメラマンが「なんとかやってみよう」というのでストロボセッティング。まあ、とてもじゃないが、ストロボの光が高架橋の列車に届かないけどね。
私のような「鉄」は当然のごとく三鉄の時刻表コピーを持参している。でないと1〜2時間に1本しか通過しないのを待つわけにはゆかない。それにこの高架橋は、トンネルを出てくる列車が突然やってくる。だから前もって3時〇〇分通過、を予測しているのだ。
「あと何分で電車来る?」(坂上カメラマン)、「どっちから電車くるの?」(カミさん)。・・・何を言ってるのかねえ、「電車」ではないのだよっ、「架線」(集電する上部にある電線)はないのだから。「気動車」又は「ディーゼル列車」、総称でもいいから「列車」と呼んでくれないかなあ。。。
逆光の気動車と我がゼファー。 [フォト:坂上]
2両の三鉄気動車は、予想時刻どおりにやってきた。そして高架橋で減速して、、、停車。
「30秒くらいは停まってるからね、落ち着いて撮ってね〜」。この高架橋の気動車からの太平洋を望む眺めは良いらしく、サービス停車である。しかしアングルを変えて撮ったところで、太陽は列車のすぐ上にあり、バリバリの逆光は避けられない。だから三鉄の派手なカラーの気動車は目立つことはない。午前中なら、もっとドラマチックだったのにねえ。
ま、とりあえず三鉄をカメラに収め、国道45号線に戻り、三陸海岸を南下する。ここから先はしばらく内陸側を通り、海はまったく見えない。
“過去の津波浸水区間 ここまで エンド”の標識。
バイパスはトンネルで山を貫く。
宮古市に入る。
おお、三陸の綺麗な海。
45号線のバイパス、三陸北道路(125cc以下不可)
“ここから スタート 過去の津波浸水区間”
国道から外れ、ちょっと寄り道。
よくよく見れば津波で破壊された防波堤が。
しかし何事もなかったかのような、美しい海岸線が連なる・・・山王岩。
田老(たろう)にて。
国道45号線から寄り道して海を目指せば、そこには三陸海岸ならではの美しい景色が目に映る。人口の防波堤は津波によって無残な姿に変えられたが、自然の岩はほとんど同じ姿のようだ。
小さな岬を走りぬけ、国道に戻ろう。その合流地点が、防災の町として“防潮堤”で名が通っていた、田老町(たろうちょう)。しかしその町を走れば・・・。
迫力ある海岸を堪能して国道へと向かう。
町の中・・・・・・・。
かつての防潮堤を海側に入る。
防潮堤の上に登る。海側も陸側も鉄骨の建物以外はなにもない。
田老の町が見えてきた。
すさまじい量のガレキ。
昭和55年に作られた防潮堤の記録版。
・・・・・・無念。
尊敬する三鉄の話を少ししましょう。
三陸鉄道 田老駅
田老駅に向かうと、ちょうど宮古行きの気動車が停車していた。駅前、いや、見わたせる限りの田老の町には民家がない。当然のことだろうか、ホームに乗降客の姿が見えない。それでも列車は停まり、そして宮古へとDMF-13系ディーゼルエンジンの唸りを上げて発車した。(※弊社春の製品にDMF-15というウェアがあるが、それはDMF-13のモデルチェンジバージョン。まあ偶然。)
私は三鉄を尊敬している。その理由をひとつ、申し上げよう。
2011年3月11日の大津波で、三鉄は線路・駅・橋脚が流され不通となった。道路もガレキでふさがれ、それを撤去したところでクルマも流された住民は、わずかに残った三鉄の線路を歩いて隣町を往復した。
そんな状況を見た三鉄の社長は決断した。すぐに復旧して列車を走らせよう、と。そして全社員の想像を超えるような努力で有言実行。まずは短区間だが、震災からたった5日間で列車を走らせることになる。
その試運転では「列車が通るぞぉ〜」と警笛を鳴らし続け、それを見た住民は涙ながらに手を振って応えたという。「プゥワァ〜〜〜ン プゥワァ〜〜〜ン!」という警笛は希望の音色なのだ。
そして住民は喜んで乗った・・・しかし無料。三鉄の社長いわく、そんな2〜3駅の中途半端な開通で、料金を頂くわけにはゆかない、と。
これを知った時、正直、涙がでましたな、、、。
国道を宮古に向かう。
宮古の漁港前にあるホテルに到着。先客のバイクが1台停まっている。
宮古市内の気温13度。昼前の盛岡は24度あったが。
ホテルの部屋からの眺め。木造住宅は津波で流されたのだろうか、まったく見あたらない。
宮古の晩飯ですよ。
宮古の宿探しには少々苦労した。前日の雫石(しずくいし)周辺の宿は選び放題といった感じだが、ここは逆で、宮古駅近くの数件あるビジネスホテルに全て電話したが、しばらく先まで復興作業員の宿泊予約で満室。で、駅からちょっと離れた“ホテル海幸園”(1泊朝食付で5000円とリーズナブル)がなんとか泊まれる、といった状況だった。さあ、宮古中心街で晩飯としよう。
宮古ではメジャーな居酒屋である“魚元”に入る。しかしこの日はどうしたことか、店内のイケスもカラ状態で、私の好物“ホヤ”も欠品。なので少し食べて(飲んで)移動。
2軒目は“浜ゆう”。「いらっしゃ〜い」と威勢良い掛け声で座敷に案内される。さっきの店のことがあるので、「ありますかぁ〜ホヤ」と尋ねたら、「もちろん、ありますよぉ〜」と返ってきた・・・ありがたい飲み直しである。
フォト:坂上修造
ウニ:まずはこれを食わなきゃいかんでしょ。
ホヤ(天然物):待ってましたぁ〜の大好物。
坂上カメラマンにもウニを勧めた。箸で小さめのをクチに入れ「ふぅ〜ん・・・」、それ以上クチにしなかった。次にホヤも勧めたが 「これ、食いもん?」とぬかし、クチにすることはなかった。そうか、四国香川県出身だったのか。ウニはまだしも、ホヤは東北以北の名産だからねえ。・・・こんな旨いものを食わないなんて、いったい何しに三陸に来たのだ?。
真つぶ貝:しこっとした食感で味も良し。
莫久来(ばくらい・ホヤとコノワタの塩辛):日本酒が進むのなんのって。
三陸といえどもウニは安い食い物ではない。しかしほかの魚貝類にせよ腹に入れば(入れないオッサンもいるが)、間接的に地元の漁師さんがほんの少しでも潤う。そう考えればサイフのヒモをゆるめ、喜んでお勘定も払えるってものだ。
旨いもの食って、ほろ酔いで宿に戻る。さて明日はもっとガンガンゆるめるとしよう・・・(たいして中身が入ってないのに大げさに言う)
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