ついにこの話になってしまう。長州と会津を訪れたら、避けようにも避けられない、悲惨で残酷な歴史が待ち受けているのだ。だからこのページは歴史の勉強にはなるけれど、ちょっと暗いです。そんなのヤダ!という人は、さっさと次の“お菓子”のページに飛んでってちょうだいな。 |
冗談みたいな話だが、つい近年まで山口県の観光客が会津に訪れ、旅館の宿帳に
「山口県・・・」と書くと 「長州の人を泊めるわけにはゆきませぬ」って断ったとかなんとか、、、えっ? もしかして1世紀以上も前のことの恨みなのか。 江戸時代末期の幕末は、薩摩・長州藩の新政府軍(西軍)と、会津藩を中心とする徳川幕府軍とで戊辰戦争が勃発。最新の兵器を持つ西軍は優位にたち江戸を無血落城させたのち、この地、会津で壮絶な戦い(会津戦争)が起こる。 ・・・とまあ。こんな具合で結果、会津藩は敗北したのだが、その戦後処理に対しても会津の人々は怒っているのだ。現在でも。。。 |
長州藩の武器は、外国から取り寄せた当時の最新兵器。 |
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会津戦争から120年以上経った1986年、長州の藩庁であった山口県萩市の市長が会津若松市を訪れ、戦争の和解と友好都市を申し入れたが、会津は断り、決別した。・・・ウソのようなほんとの話である。 それからのちも、両市の市民団体により和解を探るが、「長州の野郎!」と、いまだに合意できていない。コッケイだと言ってしまえば失礼だが、会津にはそれなりの理由があった。 偶然にも筆者のデザイン学校時代の同級生が、会津伝統の漆塗りの絵師でここに在住、長州についての話を聞いた。 「あいつらはさぁ、きったないよ! 俺たちはさ、長州その他西軍戦死者の墓を作って葬ったのに、ヤツら、会津兵の死者の埋葬を許さないで、野ざらしにしたんだぜっ!」 そして明治の時代に入っても、会津出身者は数々の弾圧を受けていたという。それはないぜ長州君、てな具合だろうか。 いっぽう、長州藩にも言い分はあるようだ。会津藩が抱えるあの新撰組の京都池田屋事件。長州の有望な若手をみなぶった切ってしまったことなど、あれやこれや。 でももういいではないか、たいそう時も過ぎたし、同じ日本人なのだから、と部外者は思うが、“仲直りはできないが、仲良くする事はできる” ・・・今もなお、微妙なスタンスである。 |
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次は、戦争からお菓子の話です。。。 |
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