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萩城址の毛利輝元像。幕末から250年以上前の関が原の戦いの頃、会津の上杉景勝(上杉謙信の2代目)は西軍であり、長州の味方だったのだが。
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今も会津の市民団体によってきれいに清掃、管理されている西軍墓地。
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会津戦争には剣豪がいる新撰組も西軍と戦うが、最新の飛び道具には適わず敗北。なお、新撰組の土方歳三(ひじかた
としぞう)は、この後、函館に移り戦うが戦死。 |
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会津戦争から120年以上経った1986年、長州の藩庁であった山口県萩市の市長が会津若松市を訪れ、戦争の和解と友好都市を申し入れたが、会津は断り、決別した。・・・ウソのようなほんとの話である。
それからのちも、両市の市民団体により和解を探るが、「長州の野郎!」と、いまだに合意できていない。コッケイだと言ってしまえば失礼だが、会津にはそれなりの理由があった。
偶然にも筆者のデザイン学校時代の同級生が、会津伝統の漆塗りの絵師でここに在住、長州についての話を聞いた。
「あいつらはさぁ、きったないよ! 俺たちはさ、長州その他西軍戦死者の墓を作って葬ったのに、ヤツら、会津兵の死者の埋葬を許さないで、野ざらしにしたんだぜっ!」 そして明治の時代に入っても、会津出身者は数々の弾圧を受けていたという。それはないぜ長州君、てな具合だろうか。
いっぽう、長州藩にも言い分はあるようだ。会津藩が抱えるあの新撰組の京都池田屋事件。長州の有望な若手をみなぶった切ってしまったことなど、あれやこれや。
でももういいではないか、たいそう時も過ぎたし、同じ日本人なのだから、と部外者は思うが、“仲直りはできないが、仲良くする事はできる”
・・・今もなお、微妙なスタンスである。 |