最終話 | |
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昨晩は会津若松市内中心部のビジネスホテルに泊まった。ホテルに聞いた呑み屋に行くが、話し相手もいないので早々に引きあげる。一人旅というのは、その夜がどうにも面白くないのが、いままで長距離ソロツーリングに出なかった理由でもある。 アルコールが足りないのでコンビニに行き、ワンカップを手に取る。ラベルは野口英世だ。サイフから千円札、これも野口英世だ。そう、野口英世は会津の猪苗代(いなわしろ)出身であった。 氏は貧しい農家に生まれ、幼い頃に火傷を負うが勉学に励んで世界的な細菌学の医学博士となる。たまたま泊まったホテルの通り辺りが、15〜19歳まで氏が過した街というので、その道を“野口英世 青春通り”と名づけられているようだ。 |
このサイト制作中、弊社にやってきた知人に上記一連の写真を見せたら、 「へぇ〜、会津にチャップリンがいたんですかぁ。」 とぬかしやがった。 ・・・チャップリンだとぉ〜!、オイ、どこがチャップリンだぁ、野口英世を知らんのか、馬鹿たれがぁ! と一喝。 すると、「野口英世は新撰組だったんすかぁ?」 これまたトンチンカンな質問に、もう答える気力なし。・・・でも似てないでもない、、、チャップリンに。 |
野口英世の千円札をボ〜ッと眺めていて、ふと気づいた。ひとつ前の千円札は夏目漱石だが、もうひとつ前は、伊藤博文。そう、徳川幕府を倒した立役者のひとり、会津藩の宿敵、長州出身、初代内閣総理大臣の伊藤博文であった。 これって偶然なのだろうか。これは筆者の仮説なので、右から左に話を聞き流してほしいが、仲直りできない長州と会津、政府と日本銀行は先に長州の伊藤博文を紙幣にしたが、どうにも不公平と思って、のちに会津出身の野口英世も紙幣に登場させたのではないだろうか。そしてどちらも公平に千円札と・・・。 でもねえ、伊藤博文は、当時イギリス公使館焼き討ちやら暗殺やらと過激な人と聞き、いっぽう野口英世は人の命を助ける医者。これまたなんと相反した紙幣なのだろうか。 なお、会津の人達は1963〜1984年まで流通していた伊藤博文の千円札を、ぜったいに使わなかったという話である。(すみません、これはウソです。) |
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ある和菓子屋のご主人に、長州の話をもっていったら、おっとりした会津弁でこう言った。 「今はよほどのご老人や一部の人以外は本気で “うらみ” などもってませんよ。それに無理に “和解” しないほうが観光的に面白いんでないかなあ。。。」 そうだわなあ、会津の人々皆が本気でうらんでたら、なにか事件でも起こりかねない。過去は過去の歴史として、和解は現在のパフォーマンスとして、平和的な考えで残しておくのも良いだろう。 ・・・東北道を東京に向かうヘルメットの中では、可憐な満開の桜と、お菓子、そして長州・会津の和解の話が入り乱れ、スロットルコントロールを失った右手は、12Rをドッカァ〜ンと爆走させているのであった。 おわり。 |
桜見ごろの長州から20日間おいて、これまた満開の会津の旅。この桜巡りは偶然ではない。なんといってもド満開の桜の見ごろなんて3日間ほどしかないのだから、桜情報のサイトを毎日にらめっこしていた計画的な旅なのだ。だからこの時期まったく仕事が手につかないのである。 後日、二輪誌の編集さんに、いったいいつ仕事してるんですかぁ? って聞かれた。 「桜が美しく咲くから、見に行ってあげる。仕事などしていてはならんのです。ならんことは、ならん!」 ・・・いつしか会津の武士道が心に入り込んでいた。 |
夫婦坂二輪遊戯隊 総長 三橋弘行 |
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